瀬川瑛子さんの父親は、「上州鴉」などで知られ、NHK紅白歌合戦に2度出場した歌手・瀬川伸さんです。瀬川瑛子さんは3人きょうだいの次女として育ち、5歳ごろから父の厳しい歌唱指導を受けました。
父親をめぐっては、中国人だったという話も見かけます。函館市史には「施延雄(芸名瀬川伸)」と記されていますが、その一文は国籍や両親の出身地まで説明していません。名前の記録だけで国籍を決めることはできません。母親や姉、弟についても、本人が語った範囲と分からない事柄を分けて見ていきます。
先に分かること
- 父・瀬川伸さんは1916年に函館で生まれ、股旅ものやマドロスものを歌った流行歌手です。
- 函館市史には「施延雄(芸名瀬川伸)」とありますが、国籍についての説明はありません。
- 瀬川瑛子さんは姉と弟がいる3人きょうだいの次女です。
- 5歳ごろから父に歌を習い、小学生のころには父の舞台で前座も務めました。
- 母親はすでに亡くなっており、瀬川さんは母を思う「母さんの手」を2013年に発表しています。
- 2026年には新曲とベスト盤を発売し、歌手生活60周年へ向けて活動しています。
| 家族 | 確認できる内容 |
|---|---|
| 父・瀬川伸 | 1916年函館生まれ。歌手として紅白に2度出場し、2004年に87歳で死去 |
| 母 | 氏名や出身地は本人側の資料で明らかにされていない。「母さんの手」は本人の実話を基にした作品 |
| 姉 | 父から一緒に歌を習った姉。2021年の番組時点で70歳で亡くなっていた |
| 弟 | 子供のころから病弱だったと、2021年に本人が語っている |
| 瀬川瑛子 | 1947年7月6日、東京・渋谷生まれ。1967年に歌手デビュー |

Contents
瀬川瑛子の父親は歌手の瀬川伸
日本クラウンの公式プロフィールには、瀬川瑛子さんの父親が「往年の名歌手、瀬川伸」と明記されています。父と娘がともに歌手で、二代にわたって紅白の舞台に立った家族です。
函館市文化・スポーツ振興財団の人物伝によると、瀬川伸さんは1916年10月24日、函館の蓬莱町で料理屋「蘭亭」を営む家の次男として生まれました。1936年に函館商業学校を卒業し、翌年の歌謡新人コンクールをきっかけに歌手への道を進みます。
「上州鴉」がヒットし紅白に2度出場
瀬川伸さんは作曲家・江口夜詩さんの門下に入り、松竹映画『春雷』の主題歌「街の姫百合」でレコードデビューしました。1951年には「上州鴉」がヒット。その後も「天龍鴉」「甲州鴉」などの股旅もの、「バッテン港の蒼い船」などのマドロスものを歌いました。
財団の人物伝では、紅白歌合戦に2度出場した歌手と紹介されています。1960年代半ばごろまで歌手活動を続け、2004年3月14日に心不全で亡くなりました。87歳でした。
父親の中国人説は名前だけで断定できない
函館市史の歌謡コンクールの記録には、1937年の入選者として「施延雄(芸名瀬川伸)」の名前が載っています。旧記事が触れていた名前自体は、函館市の歴史資料で確かめられます。
ただし、市史が説明しているのは、施延雄さんが瀬川伸の芸名で専属歌手としてデビューしたという事実です。中国籍だったのか、日本国籍だったのか、両親がどこから来たのかまでは書かれていません。
出生地と国籍も同じ意味ではない
瀬川伸さんが函館生まれだったことは財団の人物伝で分かります。しかし、函館で生まれたという事実だけから国籍を決めることもできません。
「施」という姓や実家が料理屋だったことを理由に、中国人または韓国人と結び付けるのは飛躍があります。現在たどれる公的な資料から正確に言えるのは、函館市史に本名とみられる施延雄の記載があり、瀬川伸の芸名で歌手になったというところまでです。
5歳から父の厳しい歌のレッスンを受けた
2022年のananの本人インタビューで、瀬川さんは父が3人の子供のうち誰かを歌手にしたいと考えていたことを話しています。物心がついたころからピアノの前に立ち、5歳ごろには菊池章子さんの「星の流れに」を練習していました。
幼い瀬川さんにとって歌詞の意味は難しく、父から感情を乗せるよう求められて何度も叱られたそうです。姉は早い段階でレッスンをやめましたが、瀬川さんは「自分までいなくなれば父ががっかりする」と思い、父が敷いた歌手への道を歩みました。
小学生で父の舞台の前座を務めた
函館の人物伝には、瀬川さんが小学生のころから父の舞台で前座を務めたことも記されています。家で歌を習うだけでなく、幼いころから観客の前に立って経験を積んでいたことが分かります。
父の指導は厳しいものでしたが、瀬川さんは19歳でデビューしたときに父が喜んでくれ、恩返しができたと思ったとも語っています。現在の歌い方の土台には、父から繰り返し教わった歌詞の感情表現がありました。
母親は優しく見守り「母さんの手」のモデルに
瀬川さんは、父が厳しく歌を教え、母が優しく見守ってくれたことを振り返っています。一方、母親の氏名、出身地、国籍を本人や所属先が明らかにした資料は見当たりません。旧記事にあった特定の名前や国籍説は、確かな家族情報として扱えません。
日本クラウンの作品紹介によると、2013年のシングル「母さんの手」は、亡くなった母への思いをもとにした瀬川さん本人の実話です。「長崎の夜はむらさき」を作曲した新井利昌さんがメロディーを付けました。
母の氏名や国籍は明らかにされていない
母親が父のファンだったという話も広く伝わっていますが、現在の公式プロフィールや本人インタビューでは経歴まで示されていません。家族が公にしていない名前やルーツを、別人の情報や姓の印象で補うことはできません。
確かなのは、厳しい父の指導をそばで支えた母の存在が、瀬川さんの歌手としての原点の一つになり、後年「母さんの手」という作品にもつながったことです。
兄弟は姉と弟!瀬川瑛子は3人きょうだいの次女
ananのインタビューで、瀬川さんは父が「3人の子供のうち誰か」を歌手にしたかったと語っています。父の人物伝では、娘たちのうち次女の瑛子さんだけが父の指導を続けたと説明されているため、瀬川さんは姉と弟のいる次女です。
テレビ朝日POSTの2021年の番組案内では、姉は70歳で亡くなり、弟は子供のころから病弱で、当時は病床にいたことを瀬川さんが語ったとあります。
弟の病名や2026年現在は分からない
同記事に弟の病名は書かれていません。また、2021年の出演時に病床にいたという話を、そのまま2026年現在の状態として扱うこともできません。
病名を想像したり、現在も同じ状態だと決めたりするのではなく、本人が2021年に姉と弟への思いを語ったという時点付きの話として受け止めるのが正確です。
実家は函館ではなく瀬川瑛子は東京・渋谷生まれ
父・瀬川伸さんの出身地は函館ですが、瀬川瑛子さん自身は東京・渋谷生まれです。日本クラウンのプロフィールとananの本人紹介が一致しています。
そのため、「瀬川瑛子さんの実家は函館」と単純に結び付けることはできません。函館にあったのは父が生まれ育った料理屋で、瀬川さんが育った家の住所ではありません。旧記事にあった学校名や現在の実家の場所も、家族の人物像を知るうえで必要な情報ではありません。
1967年デビューから「命くれない」の大ヒットへ
瀬川さんは1967年4月、「涙の影法師」でデビューしました。1970年には「長崎の夜はむらさき」が50万枚のヒットになりましたが、その後は長い下積みが続きます。
転機となったのが1986年発売の「命くれない」です。ORICON NEWSの作品記録では週間最高2位、登場84週。ananの紹介では1987年の年間チャート1位を獲得した代表曲とされています。
父と娘が紅白歌手になった
「命くれない」のヒットを受け、瀬川さんは1987年に紅白歌合戦へ初出場しました。父の瀬川伸さんも2度出場しているため、親子二代の紅白歌手となりました。
BS11の2025年の番組紹介でも、父から5歳で歌を習い始めたことと、娘が念願の紅白初出場を果たした際の父との思い出が中心に取り上げられています。
2026年は79歳!歌手生活60周年へ向かう
瀬川瑛子さんは1947年7月6日生まれで、2026年10月現在は79歳です。2026年5月には「瀬川瑛子 究極のベスト」、8月には新曲「バラ色のタンゴ」を日本クラウンから発売しました。
レーベルは「バラ色のタンゴ」を、歌手生活60周年へ向かう一年を華やかに彩る作品と紹介しています。父から受けた幼少期の指導を出発点に、60年近く歌い続けてきたことになります。
よくある疑問
瀬川瑛子の父親は誰?
歌手の瀬川伸さんです。1916年に函館で生まれ、「上州鴉」などを歌い、紅白歌合戦に2度出場しました。
瀬川伸は中国人だった?
函館市史には「施延雄(芸名瀬川伸)」とありますが、国籍についての説明はありません。この名前だけで中国籍だったとも、日本国籍だったとも結論づけられません。
母親はどんな人?
父の厳しい歌の指導を優しく見守った母として、瀬川さんの記憶に残っています。氏名、出身地、国籍は本人側の資料で明らかにされていません。2013年の「母さんの手」は、亡き母への思いを基にした作品です。
瀬川瑛子に兄弟はいる?
姉と弟がいます。2021年に、姉は70歳で亡くなったこと、弟は子供のころから病弱だったことを本人が語りました。弟の病名や現在の状態は明らかにされていません。
瀬川瑛子さんの父・瀬川伸さんは、函館から歌手を目指し、紅白にも2度出場した流行歌手でした。瑛子さんは姉、弟とともに育ち、5歳ごろから父の厳しい指導を受けて歌手への道を進みます。函館市史に残る施延雄という名前は確認できますが、国籍を決める根拠にはなりません。母やきょうだいの語られていない私生活はそのまま尊重し、父から娘へ受け継がれた歌の歩みに目を向けると、現在まで続く長い歌手人生が見えてきます。